源泉徴収票は退職後1か月以内に
問 退職しましたが、源泉徴収票を出してもらえません。
答 会社は出す義務があるはずですが、税金のことですから、税務署で聞いてみてください。
職務権限外の問いに対してはこうした対応で幾度となく片付けて来たが、
自分自身にこうした問題が降りかかってくるとは思っていなかった。
調べてみるとやはり会社(雇用主)が退職後、1か月以内に請求などなくとも発行の義務があるようだ。(国税庁HP)
所得税法第226条 抜粋
(源泉徴収票の交付義務)
1 居住者に対し国内において第28条第1項(給与所得)に規定する給与等(第184条(源泉徴収を要しない給与等の支払者)に規定によりその所得税を徴収して納付することを要しないものとされる給与等を除く。以下この章において「給与等」という。)の支払をする者は、財務省令で定めるところにより、その年において支払の確定した給与等について、その給与等の支払を受ける者の各人別に源泉徴収票2通を作成し、その年の翌年1月31日まで(年の中途において退職した居住者については、その退職の日以後1月以内)に、1通を税務署長に提出し、他の1通を給与等の支払を受ける者に交付しなければならない。ただし、財務省令で定めるところにより当該税務署長の承認を受けた場合は、この限りでない。2 居住者に対し国内において第30条第1項(退職所得)に規定する退職手当等(第200条(源泉徴収を要しない退職手当等の支払者)の規定によりその所得税を徴収して納付することを要しないものとされる退職手当を除く。以下この章において「退職手当等」という。)の支払をする者は、財務省令で定めるところにより、その年において支払を確定した退職手当等について、その退職手当等の支払を受ける者の各人別に源泉徴収票2通を作成し、その退職の日以後1月以内に、1通を税務署長に提出し、他の1通を退職手当等の支払を受ける者に交付しなければならない。この場合においては、前項ただし書きの規定を準用する。
所得税法242条 抜粋
次の各号のいずれかに該当する者は、1年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。
6 第225条第2項に規定する通知書若しくは第226条第1項から第3項までに規定する源泉徴収票をこれらの書類の交付の期限までにこれらの規定に規定する支払を受ける者に交付せず、若しくはこれらの書類に偽りの記載をして当該支払を受ける者に交付した者又は第225条第3項若しくは第226条第4項の規定による電磁的方法により偽りの事項を提供した者
なので、発行していない会社が悪いんだから、こちらが引け目を感じる必要などさらさらないのだが、パワハラ的な言動に耐えかねて辞めてきた会社、もう二度と顔をあわせたくないと思っていた事業主に発行を依頼しなければならないとなるとどうしても気おくれする。
できれば第三者(可能な限り公的な立場の人で、費用の掛からない人)に代わりに話をしてもらいたいと思う。が、役所に行って手続きするのも大変だ。
となれば、役所の悪口(あいつらがきちんと仕事をして指導をしていないから事業主の違法行為が野放しになっているのだ、税金で食ってんだから仕事しろ!等)をどこかに書き込んでみたり、時には匿名で電話して文句を言ってやろう、という気にもなるわけだ。
ただし、これでは何も変わらないし、よくない方向に向かうだけだ(個人的にも社会的にも)と思う。
陰湿ないじめと、こうした言動は同じ精神風土から生れ、その風土をますます強めてゆくような気がしている。
大きな声で罵りあっていてもどこかあっけらかんとした、陽気な感じ(昔のイタリア映画に出てくる人々のような)。
どうしたらあんな風になれるだろうか
陽光の中の海のような、そんな大人にみんながなれないものか。
そんなことをぼんやりと考える。
妙見神社
航海の安全と、豊年豊漁を授かる神様として妙見山の中腹に祭られています。もともと山頂に祭られていましたが、あまりの尊厳さのため船影の見えない場所に移したそうです。戦国時代には近くを通る船は帆を畳むというしきたりがあったそうです。この山は霊山として崇められていて、現在でも女人禁制で、女性は山道の途中にある祠までしか入ってはいけないと言われています。(愛媛県庁HP)
妙見信仰(みょうけんしんこう)
北極星を神格化した妙見菩薩に対する信仰。日本の密教では,この菩薩を本尊とし,眼病平癒のために妙見法 (北斗法,尊星法) という修法を行う信仰がある。(ブリタニカ国際大百科事典)
妙見菩薩(みょうけんぼさつ)
北斗七星を神格化した菩薩。尊星(そんしょう)王、妙見尊星王、北辰(ほくしん)菩薩ともいう。国土を守り、災難を除去し、敵を退け、または人の寿命を延ばす福徳ある尊像。古来、人間の一生は天文と関係していると考えられ、北半球では北斗七星がその中心とみなされていた。これは、北斗七星が人の善悪の行為をみて、これによって禍福を分け、死生を決めるものという、道教の思想から出たものと混交したものらしい。密教系や日蓮(にちれん)宗系で祀(まつ)ることが多く、とくに眼病平癒のために修する法を妙見法という。形像は二臂(ひ)像、四臂像、竜に乗るもの、手のひらの上や蓮(はす)の上に北斗七星を置くものなどがあるが、一面四臂で二手に日と月とを捧(ささ)げ、二手に筆と紀籍(鬼籍)を持ち、青竜の上に乗るのが代表とされる。(日本大百科全書(ニッポニカ))
すべての星が動く中、北に位置する北極星は動かない。すべての星の中心にある。
こうして全宇宙をすべる星として特別な位置が与えられ、やがて崇拝の対象となっていった。こうして生まれたのが、北辰妙見信仰である。
北辰妙見信仰が日本に来たのは古く、4-5世紀のことらしい。しかしこの信仰は突然、桓武天皇の時代に禁止される。これが世に言う、北辰祭の禁止令である。
北辰祭の禁止の原因は、神にあやかる神事としての乱交夜祭が行われていたからだという。
禁止された北辰妙見信仰は消えず、密教、修験道の世界で、また日蓮宗によって、そして宮中の中で秘められて伝えられていく。
千葉氏の北辰一刀流との関係、船乗りの信仰、闘いの神の側面など、いろいろと興味深い情報がネット上には転がっているが、とりあえずここまで。
なお、二神島の名前の由来は、八幡神と妙見神に由来するらしい、と少し前に書いたが、二神島は島の中ほどに米山、妙見山という山が並んでおり、この二つの山への信仰からこの名前がついたという説もあるらしい。(ちなみに、八幡神社は山の上にはない)
八幡神とは
八幡神とは…
八幡神社・八幡社・八幡さま・若宮神社に祀られる神であり、その起源は大分県宇佐市の宇佐神宮にあるとされるが、神格の起源については不明な点が多い。
応神天皇は当時、大陸の文化が最初に流入してくる福岡県の北九州において産まれたとされ、誉田別尊(ほんだわけのみこと)とも呼ばれる。
近畿から西日本一帯の山の民と海の民をすべて平定、
軍事的な力によって勢力を拡大し朝鮮との交流も行い、東国への進出も行ったとされる。
そうしたことから、八幡神=武神とされる。
源氏との結びつきもあった。
源義家が7歳で元服した際に自ら「八幡太郎義家」と名乗り、八幡神の武神としての威光を利用した事が源氏と八幡神とを結びつけた出来事であると言われている。
その後、鎌倉幕府を開いた源頼朝が鶴岡八幡宮を源氏一門の守護神として祀った為、全国の武士の崇敬の対象となり、八幡神の存在は武士のみならず庶民にまで広まっていく事になる。
さらに、八幡神は元寇の際には後に神風とも呼ばれている季節外れの暴風雨を起こしたとも言われており、この国の危機を救った出来事によって八幡神の名声は不動のものとなったと言える。
八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があったとされ、そのことが、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由であったとも言われる。
諸説あるわけであるが、最近読んだ飯沼賢司「八幡神とはなにか」には、
・その成立の時から古代日本の西の国境に生まれた西方鎮守の神で国家というものを背負って登場し、大仏建立を契機に国家の鎮守神へと変身した
・仏教をいち早く取り込み、仏と神々をつなぐ新しい神として、時代の潮流をとらえ、その姿を時宜に合わせて変化させた
といった視点が示されていた。
…とりあえず、八幡神については以上とする。
二神島
瀬戸内海に二神島という小さな島がある。
二神島(ふたがみじま)
愛媛県北西部、忽那(くつな)諸島南西部にある島。松山市に属す。面積2.15平方キロメートル。松が多く松島ともいう。北東に諸島の中心中島、南方約8キロメートルに属島由利(ゆり)島がある。領家花崗(りょうけかこう)岩と白砂の真砂(まさ)土に松林の緑が映え、白砂青松の典型的な瀬戸内海の島であったが、最近松枯れの被害が大きい。中世には忽那水軍の一族である二神氏の本拠地であったが、帰農定着をした。近世は松山藩領で流刑の地であった。半農半漁の村で、柑橘(かんきつ)類の栽培が多く、周囲は好漁場となっている。ビャクシン自生地は県指定天然記念物。北岸の二神港から中島の神浦(こうのうら)港などへフェリーが運航する。人口197(2009)
(日本大百科全書より)
鎌倉時代の終わり頃、現在の山口県から移り住んだ者(豊田種家)がこの島に移住し、二神氏を名のったということで、二神氏の発祥の地であることは分かっていたが、なぜこの島の名が「二神島」なのかはずっと(個人的には)謎であった。
「二神島」の名称はこの島に八幡神社と妙見神社の2つの神様が鎮座していることに由来する
人はみなフィールドワーカーである!?
つらい時、腹が立つ時、
これはフィールドワークだ、
と自分に言い聞かせる。
そうすれば状況に埋没している自分を脱し、
自分の置かれた状況との間に距離を保つことができる。
無責任な立場に身を置くこととは違う。
あくまでも集団の一員として、それ相応の責任を担いながら、
余所者としての距離を保つこと。
いざとなれば移動できるという身軽さを持つこと。
うまく言えないが、
労働の世界、
組織の世界、
家族の世界、
こうした世界は自分の居場所であるが、それと同時に、参与的に観察する対象でもある、ということ。
考察対象であるので、そこで打ち解けられない自分を責める必要はない、ということ。
ムカつく奴ら、嫌悪感を催すような人物と遭遇しても、
それは報告対象、話のネタにできる素材だ、
という距離を置いた視線を維持しておれば、一喜一憂しないで済むだろう、ということ。
そうしたことを「フィールドワーク」という言葉は思い出させてくる。
そんなことをぼんやり考えているときに、『人はみなフィールドワーカーである』
というタイトルの本を見つけた。
私たちは、ちょっと視点を変えるだけで日々の生活が新鮮な発見の場となり、驚きやたのしさに満ちたものにすることができる、というメッセージと具体的なフィールドワークの例が数多く収められ、それなりに面白かったが、タイトルほどのインパクトは残念ながらなかった。
少し考え方を変えればフィールドワーカーとして日常を冒険に変えることができる、というような話であるならば、興味はあるが或る意味ありふれている。
そうではなく、人はみなフィールドワーカーとして生きることを強いられているのではないか、と考えてみてはどうだろう。
それはある種の解放でもあり、苦役でもあるだろう。
こうした二重性を踏まえつつ、フィールドのレポートを書いていきたいと思う。
(とは言え、結局は単なる日常のブログのようなものでしかないかもしれないが)