人はみなフィールドワーカーである!?
つらい時、腹が立つ時、
これはフィールドワークだ、
と自分に言い聞かせる。
そうすれば状況に埋没している自分を脱し、
自分の置かれた状況との間に距離を保つことができる。
無責任な立場に身を置くこととは違う。
あくまでも集団の一員として、それ相応の責任を担いながら、
余所者としての距離を保つこと。
いざとなれば移動できるという身軽さを持つこと。
うまく言えないが、
労働の世界、
組織の世界、
家族の世界、
こうした世界は自分の居場所であるが、それと同時に、参与的に観察する対象でもある、ということ。
考察対象であるので、そこで打ち解けられない自分を責める必要はない、ということ。
ムカつく奴ら、嫌悪感を催すような人物と遭遇しても、
それは報告対象、話のネタにできる素材だ、
という距離を置いた視線を維持しておれば、一喜一憂しないで済むだろう、ということ。
そうしたことを「フィールドワーク」という言葉は思い出させてくる。
そんなことをぼんやり考えているときに、『人はみなフィールドワーカーである』
というタイトルの本を見つけた。
私たちは、ちょっと視点を変えるだけで日々の生活が新鮮な発見の場となり、驚きやたのしさに満ちたものにすることができる、というメッセージと具体的なフィールドワークの例が数多く収められ、それなりに面白かったが、タイトルほどのインパクトは残念ながらなかった。
少し考え方を変えればフィールドワーカーとして日常を冒険に変えることができる、というような話であるならば、興味はあるが或る意味ありふれている。
そうではなく、人はみなフィールドワーカーとして生きることを強いられているのではないか、と考えてみてはどうだろう。
それはある種の解放でもあり、苦役でもあるだろう。
こうした二重性を踏まえつつ、フィールドのレポートを書いていきたいと思う。
(とは言え、結局は単なる日常のブログのようなものでしかないかもしれないが)